公共投資に対する”日本人独自の価値観”
インフラの老朽化や災害が問題視されて久しいが、公共投資は年々減らされている。その背景には、「公共投資=無駄遣い」といった財源に関する不安や、土木業界と政府の癒着といったネガティブなイメージなどが大きく影響している。
だが、それだけでなく、公共投資に対する”日本人独自の価値観”というものがあるというのだ。京都大学大学院工学研究科助教の中尾聡史氏に、日本で公共投資バッシングが起きている民俗学的な要因を伺った。
1910年ごろから土木業界は嫌われてきた?
――過去に民俗学と公共投資バッシングに関する論文をいくつか書かれていますが、それらの関係性に興味を持ったキッカケはなんですか?
中尾助教 公共投資にネガティブな風潮が蔓延していることは理解していましたが、当時は田中角栄の金権政治やロッキード事件といった”政治とカネ”が主要因だと思っていました。ですが、2012年の紅白歌合戦で美輪明宏さんが歌った”ヨイトマケの唄”を聞いた時、「土木業界が嫌われている本当の理由は民族的な部分が影響しているのでは?」と、ふと頭に浮かんだことが最初です。
その後、土木学会の資料に目を通したのですが、同会が設立された1910年ごろには、すでに土木業界に悪いイメージがあったことが伺える内容が散見されました。
――どのような内容だったのですか?
中尾助教 例えば、1915年に発行された「土木学会誌 Vol.1 No.2」内では、『土木ナル語ヲ使用セルヤ之ヲ工事或ハ建築ノ意味ニ用ユルヨリモ寧ロ之ヲ醜悪又ハ汚穢ナル形容詞トシテ使用スルコト多キニ似タリ(訳:土木という言葉は、醜悪や汚穢の意味を含んでいる)』という記述があります。
政治とカネの問題は1970年ごろに注目されましたので、それらが公共投資バッシングの主要因ではなく、日本古くから根付くもの、つまりは民俗的なものが影響していると、ある種の確信を覚えました。
――研究を始めて、民俗学と公共投資バッシングのどのような関係性が見えてきましたか?
中尾助教 明確な出来事や転機があって、それ以降、公共投資バッシングが急に起きたわけではありません。ですが、やはり”ケガレ(穢れ)”に関わる自然観の存在が大きいと思います。
ケガレとは、『人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる畏れ、不安と結びついたもの』(山本幸司:『貴族社会に於ける穢と秩序』,日本史研究,Vol.287,pp.28-54,1986.)を指し、古くは『古事記』にケガレの観念が表されていました。
具体的には、人の死や病気などがケガレの対象とされていましたが、巨石や巨木を動かして自然に大きな人為的変更を加えること、大地に変化を加えることなども挙げられます。
そして、ケガレの発生は神を怒らせる行いであり、その当事者の死や天災といった”神罰”が表出する、とされていました。自然に人為的変更を加える土木工事や建築工事は、人間と自然の均衡を乱すケガレを生み、神の怒りを招く行いです。未だにこのケガレに対する意識が、公共投資に批判的な意識につながっているのではないでしょうか。
今も残る「災害=天罰」という風潮
――確かに「災害=天罰」といった風潮は珍しくないような…。
中尾助教 はい。例えば、阪神淡路大震災が起きた同年、毎日新聞に掲載された『淡路島北端に野島断層があります。明石海峡大橋の工事でドンドンと野島断層の頭を打ったので海の神を怒らせたと信じます』という寄稿が象徴的ですね。
有名な話では、2000代後半に起きた広島県福島市の建設工事をめぐった裁判で、計画反対派団体(原告)が勝利した際、映画監督の宮崎駿氏は「開発でけりがつく時代は終わった。公共工事で劇的に何かが変わるという幻想や錯覚はやめた方がいい」と話していますが、ジブリ映画にも、こうした自然観が表れています。
――ジブリ映画は環境について題材にしたものが多いですね。
中尾助教 そうです。ジブリ映画は公共投資に対する批判的な主張が垣間見えます。「もののけ姫」は、山を削って鉄を作る製鉄集団と、それにより森を壊された動物神がたたり神となって戦う様子が描かれました。「千と千尋の神隠し」では、舞台の湯屋に、高度経済成長期の過剰な土地開発によって疲弊した神々が来店しています。
この2本は大ヒットを記録しましたが、日本人の中にある公共投資に対する批判的な感情が、ストーリーに共感、そして共鳴をもたらしたことが大きかったのではないでしょうか。
また、ジブリ映画に限らず、”公共投資をキッカケに問題が発生する”ストーリーは珍しくありません。そういった作品を通して、小さいころから私たちの心の奥深くに、公共投資への不の感情が醸成されていたのかもしれません。
――ちなみにケガレに対する意識は日本に限ったものですか?
中尾助教 基本的にアメリカやヨーロッパ諸国では見られません。ただ、東アジア圏、つまりは仏教をルーツにした国ではちょくちょく見られます。仏教は生き物や虫、樹木に至るまで、一切の殺生を悪と見なす”殺生禁断思想”がベースにあり、公共投資のような自然開発は当然悪と見なされます。
昨今の公共投資バッシングは的外れ
――公共投資バッシング同様、土木業者・建設業者にも批判的な目が向けられることもあります。この傾向もケガレが影響しているのでしょうか?
中尾助教 はい。人間が土に手を加えることはケガレになりますので、被差別民が土木業務を担わされてきたことを指摘する研究は少なからず存在します。言うなれば、彼らは土木工事によるケガレを背負わされた”スケープゴート”だったのだと思います。実際、被差別部落の人たちが土木従事者として働いていた歴史が存在し、被差別部落の人たちが建設業に携わる傾向が高かったことも確認されています。
また、”鬼”も恐ろしい妖怪と認識され、古くから言い伝えられていますが、土木業者の一種である”鉱山師”を鬼に見立てていた、と鬼の起源について推測する研究者もいます。桃太郎は宝物を盗んだ鬼を退治しに行くという話ですが、”山を漂泊する鉱山師(鬼)が掘り当てた金銀を桃太郎が奪う話”という、多くの人が覚えているストーリーとは真逆の可能性が指摘されているのです。
「鬼滅の刃」の聖地として注目された大分県別府市の八幡竈門神社には、鬼に石段を作らせ工事が終わると鬼を追い払ったという伝説とセットで、鬼が築いた石段が残されています。鬼側の視点に立ったとき、鬼退治は単なる美談では済まされないのです。
――本当に昔は「土地開発は人間がやるものではない」という意識が根強かったのですね…。
中尾助教 そうです。土木工事・建設工事に関わった人々が異人視され、鬼や河童といった妖怪と見なされてきたのだと思います。この風潮が現代に引き継がれ、現在も土木業者や建設業者を蔑むような風潮が一部残っているのでしょう。
――「土に手を加える」という意味では、土を耕すため農家も同様かと思います。農家も同じように差別的な立ち位置だったのでしょうか?
中尾助教 それはないと思います。平安時代において、当時支持を集めていた陰陽道では「地中には”土公神”といる」と言われており、土公神は1m以上の地中に存在するとされていました。それ以上の土を掘削することは忌むべきとされ、”犯土”と言われていましたが、裏を返すと『1m以内であれば土を掘っても大丈夫』ということになります。
さすがに、土を耕すことができないと餓死してしまうため、「多少は土を犯して良い」という少々ずる賢いルールが決められていたようです。
――過去の風習が今現在も残っているのはある意味すごいですね。
中尾助教 とは言え、公共投資を無駄遣いとする批判が、ここ20~30年間頻繁に報じられたことも大きいです。事あるごとに「これ以上借金すると日本は財政破綻する」と公共投資がやり玉に挙げられ、公共事業費が増加する度、平行してネガティブな報道も増加しました。
ただ、国債発行残高の内訳を見ると、特例国債ばかりが増加を続けており、公共投資の資金源である建設国債はほとんど増加していません。つまりは、昨今報じられていたような公共投資バッシングは的外れであり、ただただ公共投資にネガティブな印象を植え付けました。
借金が大きく増えたのは、公共投資のせいではないのに、公共投資だけが悪者にされたということです。土木に対する悪いイメージが古くから共有されているため、こうした間違った公共投資バッシングが易々と受け入れられてしまったのでしょう。
ビジュアルを意識した建設を
――公共投資バッシングを乗り越え、その必要性に気付いてもらう方法はありますか?
中尾助教 まずは、今回お話しした背景を知ることが大切になるのではないでしょうか。無意識的に公共投資に嫌悪している人は少なくないので、地道ではありますが、ここで語ってきた土木の歴史や民俗をまずは知ってもらうことが大事だと思っています。
――土木業界・建設業界は今後どのように仕事に取り組むべきですか?
中尾助教 土木業界・建設業界も同様に、過去を知ることが大切です。工事をする際、地鎮祭をやることが一般的で、ただの安全祈願祭と捉えられつつありますが、自分たちの仕事が自然を改変する営みであることをよく理解したうえで臨まなくてはいけません。
また今後は、ただ開発・建設するのではなく、景観に配慮したりデザインを意識したりと、完成後のビジュアルを念頭に置くことで、「公共投資はなんか嫌だけど良いものができるなら別に良いか」と国民が考え方を改めることにつながります。
なにより、公共投資バッシングに負けずに、土木業界・建設業界に従事する人が、自身の仕事に誇りを持って堂々とすることが一番重要になるのではないでしょうか。